小説

クラゲみたいな君

 

「来週の金曜、お昼から天文館行かない?」

 優実ゆうみは電話越しに俺に問いかけた。俺の予定が空いているのを確信しているみたいに、はっきりとした口調で。

「来週の金曜っていうのはつまり、放課後ってこと?」

 隣の部屋で寝静まっている両親に聞かれないよう、いつの日かの修学旅行の夜みたいに、布団にもぐって声をひそめる。

「そういうこと。ほら、来週会議があるとかで、午前中解散だって先生が言ってた」

 カレンダーを頭の中に思い浮かべてみる。たしか、市内の先生たちが校内に集められ、大掛かりな研究会が開催されるとかで、授業が午前中で終わる。グラウンドも使えないから、部活もせずに帰れる日だったはずだ。……ってことは。

「え、あり。めっちゃあり! 優実、天才かよ!」

 どう考えたって最高になるとしか思えない放課後デートの誘いに、壁一枚挟んだ向こうの存在を忘れて大きな声を出してしまう。

「やったあ! いや、実は私って天才なんだよね!」

 久しぶりに優実と長く一緒にいられる。今一度反芻はんすうすると、クーラーをつけているのに体温が二、三度上がった気がした。身体に溜まった熱を冷まそうと窓を開けてつま先にサンダルを引っかける。ベランダの柵にもたれかかると、隅にある排水管に昼間桜島が噴火したときの火山灰が積もっているのが見えた。

「天才の優実さんは、行きたいところはもう決まってるの?」

「とりあえず、商店街の近くの喫茶店でサンドウィッチとカフェオレのランチのセットが食べたい。あとは、水族館で期間限定のクラゲの展示があるから、そこも見てみたいの」

 隙のないスケジュールに、思わず唸ってしまう。

「いいね、最高」

「まだまだ終わらないよ。UFOキャッチャーでクラゲのぬいぐるみも欲しいし、カラオケも行きたい。あ、でもカラオケは前行ったからいいかなあ」

「欲張りセット最高。でも、全部行ける余裕あるかなー」

「やりたいことは、言葉にしないと叶わないんだよ?」

 優実のやりたいことリストがゆるい風に乗って夜空に溶けていく。優実は、やりたいと心で決めたことは、たとえそれが自分たちの手に負えないようなことでも、神様に祈る類いのものでも躊躇なく口に出して、そしてそれを必ず叶える天才だ。優実のはっきりとした物言いには、言葉を現実にしてしまう不思議な力がある。

 

 今から三ヵ月くらい前のことだ。

 三月三十一日。駅前のファミリーレストランで優実とすることもなくダベッていた。

 軽音部に所属する彼女に連れられる形で、カラオケで三時間半熱唱し終えた俺たちは、一番値段の安いドリンクバーで喉を潤す。特別したいこともないけど、まだ帰りたくもない。だらだらと身体を涼しい店内に押し留めていた。

「間違い、何個見つかった?」

 ストローに唇をつける優実。

「合わせて、九個。やっぱり、一個見つかんないわ」

 テーブルの脇にある、メニューの表紙も兼ねた間違い探しが不敵に笑う。最初こそ勢いよく挑んでみたものの、終盤はどれだけ見比べても間違いが見つからない。

「十個目の間違いがない、というのが最後の間違いなのでは」

 半ば諦めの入った指摘は、「それはないでしょ」と優実に一蹴された。

 優実が両指で目頭をつまむ。

「私はもう眼精疲労がやばいから。タケヒロに任せる」

「そんな卑怯な。もうネットで調べちゃう?」

「それはダメ。自分たちの目で確かめないと、絶対後悔する」

 そう言いながら、彼女は間違い探しには飽きてしまっているようだった。それでも、十個目の間違いが見つからないおかげで店を出ない口実にもなっているわけだから、このまま見つからなくてもいいな、なんて思ったりもする。

「さっき優実が最後に歌ってたの、なんて曲だっけ」

「SaucyDogの『魔法にかけられて』だよ」

 彼女が歌っていた楽曲を音楽アプリのプレイリストに打ち込む。これも彼女と付き合ってからのルーティーンで、プレイリストにある楽曲が増えるほど、たしかに二人の関係値が深まっていく感じがしてたまらない。

 優実はコーラがなみなみと注がれたコップを手にする。

「明日から三年って言われて、信じられる?」

「信じられない。あと一年で卒業って、早すぎる。何も決まってないのに」

「私らもそろそろ考えなくちゃいけないよね。将来のことだって」

「そうだよな。でもそんな遠い将来のことより、優実と同じクラスになれるかが不安でしかないよ、俺。気が気じゃなくて、夜しか眠れない」

 ふざけて言ってみるけど、あながち嘘じゃなかった。

 同じクラス同士で付き合ったカップルは、始業式のクラス替えで離される、という噂が学校中まことしやかに流れていた。噂といっても、過去に同級生でそのクラス替えの餌食になったやつもいて、不気味なリアリティがあった。恐ろしくて仕方がなかった。

「クラスが変わると、普段から顔を合わせることも少なくなるから、なんとなく疎遠になんだよ」

 彼女と別れた友達の切ない表情が、呪いのように脳裏にこびりついていた。

 でも優実はまるでクラス名簿を直接確かめたみたいに、あっけらかんと言う。

「大丈夫。また同じクラスになれるよ」

「なれるかな?」

「うん。なれる。タケヒロは気にしすぎだよ。不安とか心配って、口に出せば出すほど大きくなって、現実にも嫌な影響ばかり及ぼすの。だから、どんなに怖くても、できるだけ言葉にしたらだめ。その代わり、こうなるはず! なってほしい! って希望は、積極的に口に出そう? そうしたら、願いは叶うから」

 口に出せば出すほど、願いが現実に影響を及ぼす。原理もよく分からないし、完全に納得がいったわけではなかったけど、絶対優実と同じクラスになれる、なれるに決まってると口に出してみる。出してみると、不思議とそれは現実になるような気がした。その調子だ、と優実は頬杖をつきながら大人っぽい顔つきでこちらを見ていた。

 次の日、正面口で発表されたクラス名簿には、俺と優実の名前が同じ場所に示されていた。教室へ走っていき、新しいクラスメイトたちの視線も気にせず、彼女と手を合わせて喜んだ。

「ね? 言ったでしょ」

 こともなげに頷く優実の背中にはギターケースがあって、それがなにかの魔法の道具のように思えて、彼女はどんな魔法を使ったんだろうと本気で疑った。

 優実は、間違い探しの十個目は見つけようとしない少し怠惰な魔法使いだけど、あれから俺はその不思議な力をずっと信じ続けている。

 

 ベランダから見える明かりの少ない見慣れた風景が好きだ。田んぼの周りをぐるっと囲うように置かれた、少し頼りない街灯。遠くには大きな山が二つそびえていて、大きな丸い月がぽんと浮いている。庭にある小さな畑では、毎年大きなナスとトマトがとれる。昔から何も変わらなくて心地いい。

 同級生は、「こんな田舎抜け出して、早く博多に出てやる」なんて文句を言っていたりもするけれど、俺はこの町が嫌いになれない。高校までは自転車で三十分、天文館まで出るにはバスで一時間はかかる。火山灰は年中、空気中を舞っているし、制服も外には干せないし、夜になればコンビニは閉まるし、夏はカエルが鳴いてうるさい。近所には大きなパチンコ店しかないけど、それでも、この町が嫌いじゃない。

 隣に優実がいてくれれば、それでいい。

「ちょっと、タケヒロ、話聞いてる?」

「ごめん、なんだっけ、聞いてなかった」

 スマートフォンの向こう側に意識を集中し直す。

「もう。そうやってすぐ空想に浸る癖直さないと、考え事してる間に私、どこか行っちゃうよ」

「ごめん。天文館行くの、楽しみすぎて」

 もう、と優実は困ったような声を出す。

「とにかく、金曜は授業終わったらすぐ校門に集合。ちゃんと着替えも忘れずに持ってきてね」

「着替え?」

 なんで必要なんだろう。制服で天文館を歩くと、何か不都合でもあるのだろうか。

「なんも聞いてないなあ、君は。ほら、先生とかに制服見られて通報されたりしたら面倒でしょ」

 そうか。はしゃぎながらも実は冷静沈着な彼女が、頼もしくて仕方ない。

「あと一週間先か、なんか遠く感じる」

「一週間なんて、すぐだよ」

 俺のじれったさを、彼女の落ち着いた声色がいつも溶かしてくれる。彼女が一つ言葉を口にすれば、波ができていた心の中はふっと静まる。たしかに、一週間なんてあっという間かもしれない。そう思わせてくれる優実は、やっぱり魔法使いなのかもしれないな。

 

 

 四限終わり、チャイムの音が鳴ると視界の端で優実のシルエットが動いた。俺は地理の教科書と資料集を素早く机の中に詰め込んで、私服しか入っていない最大限減量したカバンを肩に背負い、いち早く校門を目指す。おさむに「デートか?」と軽くいじられて、頷きながら手を振ってその場を去る。

 放課後が楽しみでふわふわしていたせいで、授業の内容はまったく耳に入らなかった。それは、優実もまるで同じように見えた。小走りで着いた校門の脇に生えるクスノキの陰には、「遅いよ!」と頬を膨らませる優実がいた。あれだけ急いだつもりだったのに、なぜか俺は彼女に追いつけない。

 高校の前にあるバス停から天文館前まで、バスに揺られること四十五分かかる。普段の授業一限分にも匹敵する退屈に思える時間も、彼女と話をしていれば一瞬で過ぎる。運転席のモニターに表示される停留所の名前が、光の速さで移り変わっていく。

『次は終点、天文館前です』

 運転手のアナウンスに思わず顔を見合わせて、揃って車窓から顔を出した。気づけば、ぬるい潮風が俺たちを歓迎してくれていた。

「とりあえず、公衆トイレで着替えてから、集合ね」

 大急ぎでTシャツに着替えて、ウキウキしながら外に出る。壁の前に、オフショルダーのワンピースを身にまとった優実がいた。制服じゃないだけで、なんだかやたら大人びて見える。露出された肌を見ていると、なんだかやましいことばかりが頭に浮かんできてしまう。

「あ、今エロい目で見たでしょ?」

「いや、見てないから! マジで!」

「ムキになってるの、余計に怪しいよ」

 照れ隠しのつもりで彼女の手のひらをずいと掴むと、ぎゅっと握り返される。照れくさくて顔を見られなかったけど、隣にはいたずらな笑みを浮かべる優実がいる気がした。

 優実が行きたいと言っていたレトロな喫茶店で、優雅なランチタイムを過ごす。丁寧に切り揃えられたハムと卵のサンドウィッチと、アイスのカフェオレが丸いテーブルに運ばれてくると、優実はうっとりとしながらカメラロールに収めた。俺は、そんな優実を納得がいくまでカメラロールに収める。

「どう? 美味しい?」

 視線で優実が尋ねてくる。

「うん、美味しい。雰囲気もいいし、大人って感じがする」

「気に入ってくれたならよかった。ここには、絶対タケヒロと来たかったんだ」

 優実は一人前のサンドウィッチをぺろりと平らげてから、満足げに言う。俺はすました顔でカフェオレをすすりながら、また新たに彼女の思い出の一つになれたことを自覚し、心の中でガッツポーズした。

 喫茶店を出ると、肌が強い陽気に包まれる。額に滲む汗を、腕で拭ってはごまかす。長袖のワイシャツだったらもっと湿気が鬱陶しかっただろうから、着替えてよかった。

 水族館に入ると、館内は水生生物の住む環境に合わせて、暑すぎず寒すぎずのちょうどいい気温を保っていた。ブラックライトを当てると青色に浮かび上がるスタンプを、入館証の代わりに手の甲にスタッフに押してもらう。

「私のスタンプ、クラゲのマークだった。クラゲだよ。やったね」

 連呼する彼女を全力でスルーする。俺の手の甲に押されたのは、チンアナゴだった。

 館内を、列に沿うようにして歩く。近海で生きる深海魚や貝類たちが、水槽の中を自由に泳ぎ回っている。へえ、とかふうん、なんて、解説を見ながら分かったふりをして頷く。時折、うひゃあと声を上げる優実の視線の先には、毒々しい色をしたカエルがいた。

 特設会場にたどり着くと、いくつもの円柱状のガラスの水槽が凝った照明にライトアップされていた。光を受けた無数のクラゲが、踊るようにふわふわと水中を浮いている。声を失ってしまうほど美しい。ふとガラスに触れてみると、無機質なひんやりとした温度が伝わってくる。

 優実は鋭い目つきで、水槽の中をじっと覗き込んでいた。

「クラゲってさ、種類によっては、何十年も何百年も生きるらしいよ」

「へえ、そうなんだ?」

 優実の言葉の続きに、そっと聞き耳を立てる。

「厳密に言うと、自分自身のクローンを作り続けられるから、実質的には不死身なんだって。だからたぶん、ここにいるクラゲたちって、一生死なない子もいるんだよ」

「マジ? すごいな、かなり羨ましいかも」

 水槽の中をたゆたうクラゲを見つめる。意思を持たない触手が、照明とともにゆらめいている。不老不死とか、夢みたいだ。

「そんなに羨ましいことなのかな?」

 静かに反発するように、俺にだけ聞こえる声で優実はつぶやいた。

「波に逆らうこともせず、何十年か何百年、下手したら永遠にただずっと同じ場所を漂って。それって、本当に幸せなことなのかな」

 彼女の言葉の真意が分からず、ただ黙っていた。優実は誰に言い聞かせるわけでもなく、言葉を紡ぐ。

「私は、寿命が決まっていていいから、その短い人生の中で一生懸命生きたいけどな。広い世界を知って、そこで誰よりも輝きたい」

 クラゲは、この水槽の中で、水族館がある間は永遠に生き続ける。それはそれで、ある意味で幸せなことなんじゃないかと俺は思ってしまう。居場所があって、その環境に自分が満足している。それは、間違いなく恵まれていることだ。

 でも、優実は違うのかもしれない。クラゲにどんな思いを馳せているのか、彼女の横顔は今にも言葉にしなくてはいけない何かを必死に押し留めているようで、心臓が不穏に脈を打った。

 

 水族館を後にして、商店街に戻る。弱まった日差しに、手のひらで傘を作ればなんとか抵抗することができる。そろそろ日傘を買わないと、この国では生きていけない気がする。

 特設展示を見終えた後、シャチやイルカなど大きな生き物たちとガラス越しに出会うたび、優実はそれはもう子供みたいにはしゃいだ。言いようのない妙な空気は立ち消えて、俺もほっと胸をなで下ろしていた。

 優実たっての提案で、クラゲのキーホルダーをUFOキャッチャーで二つ取り、一つずつカバンに付けた。合計で千八百円ほどかかって、結果的にお土産屋さんで買うよりも高くついてしまったけれど、「この思い出も含めたら、安いくらいじゃない?」と彼女が言うものだから、それだけで俺は途方もなく舞い上がり、また彼女の魔法にかかってしまったみたいだった。

 優実が電話で話していたやりたいことリストを思い出す。喫茶店に水族館、UFO キャッチャー。彼女が口にしたことはやはり現実になって、何よりも楽しい記憶として刻まれる。

「この後どうしようね?」

 帰りたくないけど、その代案を提示できないまま、委ねるようにつぶやく。気づけば、商店街の中でも人の少ない通りまで歩いて来ていた。

「カラオケは近くにあるけど、この前行ったばかりだし」

「うん。こんな楽しかったのに、ファミレスで締めるのも、なんだか味気ない」

 左腕に装着した腕時計は、早いもので十八時前を示していた。くたくたになるまで遊んだのに、いつもの放課後と同じ時間をさしていて、まだ夜は始まってもいなかった。

「今の私たち、高校生に見えるのかな」

 優実は、俺のTシャツを見ながらぼそっとこぼす。いつもの彼女らしくない、消え入りそうな声で。

「どういう意味?」

「私たち、平日なのに制服も着てないし。なんなら、ちょっとおしゃれしてるし、高校生に見えないかもなあ? と思って」

 たしかにそうかもしれない。もしかしたら、県外から来た大学生のカップルくらいには見えるかもしれない。

 ……だから、なんなんだろう。返すべき適切な言葉を探していたら、優実が上目遣いで俺を見て、今度ははっきりと口にした。

「だからね。ラブホテル、入ってみない?」

「ラブ、ホテル?」

 あまりにも予想外で刺激的な提案に、言葉に詰まる。見上げてみると、やたら明るい電飾で装ったビルが並んでいて、またたじろいでしまう。

「うん、ラブホテル。実はね、私服持っていこうって提案したのも、そうすれば自然に入れるかなあ、なんて考えて。言ったの」

 策士だ。彼女の発する言葉には、全て意味がある。

「……高校生だって、バレないかな?」

「バレないよ。絶対、バレない」

 優実が言うんだからバレないに決まっている。それよりも、まだまだ優実と一緒にいられる。近い距離でいられる。優実のことを独占できる。いろんな下心で頭がいっぱいになって、胸が詰まった。優実のうなじが夕方の陽に焼けて桃色に染まっている。

 

 通りの目を盗んで、自動ドアを通過する。受付に人はいなくて、それらしき姿を探してみたけれど、そういう仕様なんだと気がつく。未知の場所で、二人で探検隊みたいに身を寄せ合う。

 あからさまに落とされた照明と、怪しく灯る赤色のボタン。近づいてみると、どうやら空いている部屋を示して点灯しているようだった。「どれがいい?」「一番安いとこでいいよ」「それでもいくつかあるよ」「違いとか全く分からんって」なんて、ロマンもへったくれもない会話をしながら、なんとか部屋を選んで、はやる気持ちを抑えてエレベーターに乗り込んで、二階を押す。

 優実がぺろっと舌を出した。

「全然、高校生だってバレなかったね」

「ね。余裕だったわ」

「タケヒロ、ビビってたくせに」

 彼女には俺の強がりなんか全てお見通しだ。心の中を読まれていることすら、もう心地よく感じるようになっていた。

 203と書かれた部屋のドアノブをひねって中に入る。想像以上に大きい室内に、優実がはしゃぐ。俺はすかして、なんとなくソファに座ってみる。やっぱり落ち着かなくて、意味もなく部屋を行き来してみる。優実は大きすぎるシャワールームに感激して、これまた写真を撮りまくっていた。

 大きすぎるベッドにダイブすると、重力に負けて身体が沈んでいく。枕もとには照明を調整するつまみやボタンが何個もあって、適当にひねったり、押してみたりする。呼応するように部屋の中が明るくなったり、暗くなったり、点滅したりした。

 その様子を見て、優実もベッドに飛び込んできた。背中から彼女の温度が伝わってくる。いつもと変わらないくらいの距離なのに、やっぱり顔が見られない。身体を起こして、ごまかすように目をつむって軽く優実の唇にキスをする。

 この後起こることに下心を抱えながら、小さな身体を軽く寄せる。優実も、顔を俺の胸元にうずめてくる。いい匂いがする。でも、この後どうしたらいいか分からない。

 十五分くらいそうしていただろうか。痺れを切らしたように、優実がつぶやいた。

「タケヒロと、ずっとこうやってくっついてみたかったんだ」

 優実の上目遣いは、俺のちっぽけな理性を壊すには充分な威力があった。遠慮とか恥ずかしさとか照れとか、そういう自分を抑圧する全ての感情が弾けて、俺はやわらかい身体を強く抱きしめた。

 

 好きな人の重みって、その質量分イコール愛情を表している気がする。上から全体重をかけられると、少し息苦しいけど、かえってその息苦しさがくせになる。「わたし重たいから恥ずかしい。もう降りる」なんて言われると、そのいじらしさが愛おしくなって、離れていかないよう余計に強く抱き寄せてしまう。

「夏休みは、何しよう?」

 天井を見つめたまま話しかける。腕にかかる優実の頭の重みの分だけ幸せを感じる。

 このままずっと寝そべっていたいけれど、休憩はあと二十分しかない。美しい時間ほど、あっという間に過ぎる。

「夏休みかあ。もうすぐだね」

「うん。最後の夏休みだから、優実といろいろしたいことがあるんだ」

 市外で行われる大きな花火大会に、駅前で開催されるこぢんまりとした縁日。海水浴にだって行きたいし、ただファミレスでダベッてもいい。想像しただけで、心がほくほくしてくる。

 ふと、布団の裾を掴んだ優実の手のひらに、ぎゅっと力が入った気がした。なだらかな背中が、ほんの少し硬くなる。誰かに言い聞かすように、言葉を選ぶように、彼女は口にした。

「私、この夏休みは本気で頑張りたいことがあるんだ。だから、夏休みはほとんど一緒にいられない」

 夏休みは、ほとんど一緒にいられない? 冗談かと思って、表情を確かめようとする。優実は布団を頭にかぶせて、頑なに顔を見せてくれない。

「……頑張りたいことって?」

「作詞とか、作曲とか。あとは、動画の編集とかも」

「軽音部のやつ? 大変なのは分かるけど、それくらいなら今までも普通にこなしてたじゃん。そんな、会えないくらい夏休みに追い込んでやる必要あるの?」

「あるの。曲も、たくさん作らなきゃだし」

「曲? ああ、文化祭もあるからか。でも。ステージだって開催されるの十月じゃなかった? まだまだ時間もあるし、そんな焦る必要ないよ」

「あのね。文化祭じゃないんだ」

「文化祭じゃない? どういう意味?」

 どうしても責めるような口調になってしまう。それでも、優実は絶対に折れない。

 今度こそ、はっきりとした口調だった。

「ごめんね。ずっと言えなかったんだけど。本気でシンガーソングライターになるために、来年から東京へ行くつもり。そのために、夏休みは曲を作ったり、動画制作の勉強したり、やれることは今、全部やっておきたい。だから、夏休みは一緒にいられない」

 東京? そんなばかな。

 優実は、この先もこの町に居続けるのだと根拠もなく思っていた。進学で一時的にある程度離れることはあっても、毎週のように顔を合わせて、欠かさずメッセージを送り合って、いずれは家族になるのだと。

 将来やりたいことなんて、俺には数えられるほどもない。優実みたいに、迷いなく口に出せるものなんかない。その数えられる中でも唯一、自信を持って言えるのが「優実の隣にずっと居続けること」だった。

 東京。トーキョー。TOKYO。現実離れしたワードを布団の中で笑い飛ばそうとしてみる。

「本気?」

「うん。本気」

 覚悟を決めてしまった人特有のまっすぐな声に、ああ、止められないんだろうなあ、と思う。

 何より、優実は口にしたことを必ず叶える魔法使いだ。視線の先にはきっと、俺なんかには見えていないものがある。触れている彼女のあたたかい肌とは裏腹に、身体の深い部分から体温がすうと冷えていくのが分かった。

「東京に行かなくてもさ、シンガーソングライターにはなれるんじゃない?」

 意味がないと分かっていながらも、引き留めたい気持ちが梅雨の雨粒みたいに情けなく垂れる。

「私は、この場所にいたらきっと甘え続ける。実家に、タケヒロに、この優しい環境に甘えて、このままでいいやって、この場所でたゆたい続ける。だから、行かなきゃいけない」

 天井が、ひらひらと揺れる赤紫色の照明に合わせて、シルエットを作っていた。さっき見た、クラゲみたいだった。狭いラブホテルの一室は、作り物の夢みたいにきらきらとしていた。

 優実はわざとらしく明るい声を出す。

「そんなしんみりしないでよ。タケヒロこそ、将来やりたいことあるでしょ」

 なりたいものなんてない。けれど、それを言葉にしてしまえば更に優実との距離が遠ざかる気がして、どこかで軽蔑されてしまいそうで、取り繕う。

「そうだなあ。俺は、お父さんみたいな先生になるかな」

「そっか。教育学部とか目指すの?」

「まあ、そういうつもり」

「いいね。中学校の先生とか、似合ってるよ」

 俺は、微塵にも思っていない夢をなんとか本物に見せようと、優実の背中をぎゅっと抱きしめる。

「お互いに頑張ろうね。私たちなら、絶対に叶えられるから」

 そう魔法使いは口にした。

 初めて、彼女が口にした夢が叶わなければいいと思った。

 

 Ⅲ

 

 開けっぱなしにしていた窓からアブラゼミの鳴く声が聞こえ始める。扇風機の回る音とのセッションはやけに物悲しくて、夏の終わりって感じがする。例年、夏休み最終日までひいひい言いながら取り組んでいた課題は早くも片付いていて、大学の赤本とやらにすでに手を出した。

 想像する限りの嬉しいことと想像する限りの悪夢をごちゃ混ぜにしたみたいなあの日から一ヵ月が経っていた。暇さえあれば、あの濃い一日を思い出していた。実際に暇だったから、夏休み中は優実のことばかり考えていたことになる。

 優実と顔を合わせる時間は格段に減ってしまった。彼女の顔を見るために、早く夏休みが終わってほしいと祈ってしまうほどだった。ラブホテルの一室で宣言した通り、彼女は休みの全てを楽曲作りに充てていた。

 最初のうちは、諦めきれずに何度も遊びに誘った。思わず惹かれてしまうような文面を、心が揺れてしまいそうな一言を、何度もLINEにしたためた。その度に心の底から申し訳なさそうな文面が返ってきて、俺は一人自室で悶える。だんだんと、彼女を遊びに誘うことが、この世において最も許されざる悪事に思えてきていた。

『今日は気分変えて、図書館の自習室で作業しようと思ってる』

 たまに彼女の気まぐれなメッセージが届けば、偶然を装って図書館へ出向いた。優実は自習室でもずっと机に向かっていて、焦りは募った。本気で東京へ行ってしまうのだろうかと、背中を目にして初めてようやく実感が湧いた。一度、書いている歌詞を見せてくれとお願いしてみたけれど「完成してからね」とやんわり断られてしまった。

 やりたいことを決めた人の強さを、痛いほど思い知らされていた。仕方がないから、学校の先生になる、という優実に伝えた偽物の夢を、とりあえず形にしてみようと考えた。

「教育学部を目指してみたい」

 地元にある大学を目指すと父親に伝えると、そうか、と嬉しそうな顔をしていた。

 なんだか、騙しているような気持ちになったけど、見ないフリをした。

 シャープペンシルをノートに走らせる。つけっぱなしにしていたテレビには、甲子園の決勝のハイライトが流れている。画面の向こう側の青春を他人事のように眺める。

 ハイペースで進んでいる参考書のページ数は、優実と会えない時間を表していた。

 夏中盤に受けた模試は、自己採点だけど明らかに点数が上がっていた。まったく嬉しくなかった。

 もし春からは離れ離れになるとしたら、このまま夏を終わらせていいんだろうか?

『最終日だけでいいから、時間が欲しい。遠出なんてしなくていいから、近所の海岸で、手持ち花火がしたい』

 何回目の誘いか、自分でも覚えていない。一週間前にそうメッセージを送ると、『最後の思い出作り、しないとだもんね!』と返してくれた。浮かれてその日のうちに近くにあるホームセンターへ向かい、短時間で終わらなそうな種類豊富な花火と、チャッカマンとバケツを買った。

 少しでも楽しませることができれば、優実の考えが変わるかもしれない。最後の思い出なんて、悲しいことを言わせないで済むかもしれない。一縷いちるの望みを胸に、俺はテレビのリモコンのスイッチをオフにする。

 

 自転車で勾配のキツい坂を下る。秋の先端を感じさせる風が、鋭く頬を切る。伸びきった前髪に、なんのイベントごとにも触れることなく夏が終わってしまったのだと実感する。夏と聞けばワクワクするけれど、イベントを伴わない夏はただ暑いだけの地獄だ。

 海岸の入り口に優実のシルエットがあった。自転車を投げ捨てるように停めて、彼女のもとへ転びそうになりながら走る。サンダルの中にさらさらとした砂粒が入るけれど、気にしない。

「タケヒロ、久しぶり。髪、伸びたね?」

「全然美容院行ってなかったから、伸びた。ついでに、模試の点数も伸びた」

「え、すごい! やればできるって、私は分かってたけどねえ」

 優実が、被っていた麦わら帽子を取る。久しぶりに会う彼女の肌は、心なしか青白くなっている気がする。

「優実こそ、いろいろ順調?」

「うん。行き詰まることはあるけどね、親はなんとか説得した。しぶしぶだったけど」

 偽物の夢を語って喜んでくれた俺の父親。やりたいことを素直に応援できない優実の親。なんだか、人生ってままならないことだらけだ。

 どちらからともなく手のひらを握る。青色を帯びた静かな海を、波がゆらりと行ったり来たりする。

「やっぱ、ここの海っていつ来ても綺麗だわ」

「うん、綺麗」

 彼女は、ここを離れることをなんとも思わないのだろうか。美しい海が見られなくてもいいんだろうか。

「俺、思うんだけど、東京の海ってなんか汚そうじゃない?」

「そう?」

「絶対そうだよ。なんか、ゴミとかで汚染されてそうだし」

 優実は、今度は頷いてくれなかった。

「……たしかにそうかもね。でも私たち、自分の目で見てないのに、そういうふうに言っちゃうのもどうなのかな」

 優実の正論が降る。彼女が言うことはいつだって正しい。その正しさが、俺にとっては羨ましくて、時に息苦しい。

 空気を変えようと、手持ち花火の入った袋を破る。上手く剥がせなくて、ポテチの袋を開けるときみたいに、雑に破る。

「タケヒロはいつも不器用だね」と優実が言うのを無視して、中に入っていた一つを華奢な手のひらに渡す。

 先端に火をつけてあげると、激しく煙を出しながら色を散らした。

「優実はさ、シンガーソングライターになったらこういう瞬間とかも曲にすんの?」「したいとは思ってる。ていうか、有名になったら絶対にするよ。タケヒロのことも歌にしたいと思ってるし」

「え、本当に? 絶対にしてよ?」

「そういうの、普通嫌がるやつでしょ」

 想定外の返事につい嬉しくなってきてしまって、花火をぶんぶんと振り回す。俺が歌詞になったら、曲になったら。考えてみると、どうしたってこの世で一番女々しい男が登場する気がして、恥ずかしくなる。それでも、それが俺なんだから仕方ない。

「天文館のことも、歌にしてよ」

「するする」

「ラブホテルのこともね」

「それは、絶対にしない」

 優実との思い出が歌になる。それって、めちゃくちゃ素敵なことだ。形になるって、ありえないほど魅力的なことだ。俺たちの日常が、誰かを支える一曲になるかも。夢みたいだ。信じられないほど嬉しくて、同時に猛烈に悲しくなってしまう。

 優実が東京に行ってしまえば、思い出は、作れなくなる。全て過去になって、過ごす毎日に優実はいない。

「優実はさ、俺と離れて寂しいとは思わない?」

「すっごく思うよ。寂しい。たぶん、いざ離れたら今思っている以上に寂しくなる。だけど、タケヒロと離れたくないから夢を諦める、そのほうがタケヒロにも自分にも失礼だと思ったんだ」

 きゅっと直線に結ばれた口元は、海の向こうを向いていた。東京には、どんな街が広がっていて、どれだけの人がいて、どんな世界が広がっているんだろう。

「怖くならない?」

「怖い。でも、同時にすごい楽しみ。自分の音楽が、どれだけ通用するのか」

 袋の中の花火が減っていく。大容量パックにしたのに。優実のいない夏休みはあれだけ長く感じられたのに、楽しい時間はあっという間に終わる。

「残り、線香花火だけだ」

「もう終わりかあ」

 不意に、優実がつぶやいた。

「あのさ、ごめん。夏休み、全然会えなくて」

「そりゃあもちろん。会いたかったけど、優実が頑張ってたのは分かってたし」

「違うの」と優実が俯く。

「私も本当は、もっと会いたかった。時間だって、作ろうと思ったら作れた。でもね、タケヒロの顔を見たらね、東京なんか行かなくていいって思っちゃいそうで、甘えちゃいそうで怖かった。あれだけ悩みぬいて下した決断が、タケヒロといるだけで、ブレちゃいそうで」

 彼女の弱音が、砂の上にさらりと溶ける。

「私、タケヒロが思ってるより弱いの。だから、私が東京に行って距離が離れても、支え合うって約束してほしい。距離に負けないで、お互いを信じるって約束してほしい。不安になることがあっても、疑わないでほしい」

 俺は頷いて、彼女を抱きしめる。首元に顔をうずめると、優実も抵抗せずに、しばらくの間そうしていた。

 最後を飾る線香花火は、派手さには欠けるけれど、儚いからこそ色をたしかに網膜に写した。砂の上に咲いた橙色の小さな花は、どんな花よりも美しく思えた。

「どっちの線香花火が長く我慢できるかな」

「絶対、俺のほうが長くできる」

「ふふん。私のほうに、決まってるでしょ」

 しばらくして、小さな花はだんだんと光を弱めて、力を失くした種がぽとりと砂の上に落ちた。先に落ちたのは俺のほうだった。同時につけたはずなのに、まだ強い光を放つ優実の線香花火を、ただただ他人事のように見ていた。

 他人事のように、見ているしかなかった。

 

 

「おいタケヒロ、どこ行くんだよ」

「ごめん。軽く風当たってくるわ」

 修が呼び止めたのを制して暖簾の外へ出ると、じめじめとした空気が肌を覆った。

 たしか例年よりも梅雨が長引いているらしく、九州の親戚の家の近くでは土砂災害もあったらしい。

 濡れていないのを触って確かめてから駐車場のコンクリートに腰掛ける。見上げると、ちぎって投げたみたいなわた雲が、むくむくと面積を広げている。東京では、どんな空が広がっているんだろうか。そもそも、優実は空を見上げているだろうか?

 高校を卒業して四ヵ月が経った。正しく言えば、優実を空港で送り出してから。つい最近のことなのに、泣きすぎたせいか記憶がはっきりしていない。

 別れがあれば、出会いがある。四月の最初こそ、そんなことをひしひしと感じさせられた。別れを惜しむ間もなく怒涛のキャンパスライフが始まって、オリエンテーションに、受講する単位の選定、サークル活動。顔を見れば、挨拶する程度の友人も何人かできた。

 はたから見れば、大学生活一年目の走り出しとしてはまずまずだろうという実感がある。本当に自分が先生になりたいのかという一点の疑問を除けば、講義はそれなりに面白い。高校でも同じクラスだった修と学部が一緒だったことをきっかけに一気に距離が縮まり、学食に通う仲にもなった。今日だって、入ったサークルの飲み会に二人で参加している。

 ぜんぜん悪くない。間違ってない。ただ、言葉にしようのないコレジャナイ感がずっと喉の奥で突っかかっている。理由は、なんとなくだけど分かってはいる。

 チノパンのポケットからスマートフォンを取り出す。動画サイトを開くと、一定の間アプリケーションのロゴが表示されたのち、脳みそに直接訴えかけるようなショートの動画が流れてくる。虫メガネのマークを押す。履歴に残っている【ユウミ】という名前に触れると、アコースティックギターを抱える優実が画面に映し出された。

 高校を卒業して、優実は本格的に動画を投稿し始めた。夏休みの頃から準備してきたストックたちが、休むことなく、こつこつと上げられていた。流行りの歌のカバーや、自ら作曲したオリジナルソングに、弾き語りの動画。

 優実は、本当に自分のやりたいことを、東京という未知の都市でまっすぐやれているようだった。素人目に見ても動画の数字は伸びていなかったけれど、「自分で選んだものがやれてるって、最高に気持ちいい!」と電話口でも言っていて、充実ぶりが垣間見えた。

 俺だって、バドミントンのサークルに入ったし、書店でのバイトも始めた。講義だって欠かさず出ているし、サークルの飲み会にも顔を出すようになった。ノンアルでも、充分楽しい。

 同年代が触れる、当たり前で安心する日常。差し出されるモラトリアムを、緩やかに味わう毎日。クラゲみたいに、目的なくたゆたう生活。

 でもきっとそれは、優実がもっとも忌み嫌うものだった。

 夜の二十二時を迎えると、欠かさず電話をかける。プルル、という電子音が三回鳴る前に、優実は電話をとってくれる。もしもし、という彼女の声を耳が捉えれば、俺はコレジャナイ感を一瞬でも忘れられた。

「タケヒロー、そっちの調子どう?」

「相変わらず、桜島の機嫌が悪いよ」

「はは、相変わらずだね」

「優実はどう?」

「もう、バイトして、弾き語りして、SNSの露出もなんとかやって、って感じ。まだまだだなあ」

「大変だよな。でも頑張っててえらいよ」

 シンガーソングライターを目指して四ヵ月、優実の活動はそこまで上手くいっていないようだった。彼女の口から活動の難しさをニュアンスで聞くたびに、胸を撫で下ろす。

 そのまま挫折して、鹿児島へ帰ってきてくれたら。それなりの日常に、足りないのはただ優実の存在だけだった。

「無理しないでな。何かあったらすぐにでも帰ってきなよ。俺、待ってるから」

 優実のことを思うフリをしながら、自分を救うための本音をバレないように吐いた。

 彼女は「ありがと。でも、まだまだ始まったばかりだから」とこぼした。

 優実は、けっして不安を口にしない。言葉にしたことは、全て実現してしまう。

 三年の夏から、彼女の頑張りを見ていた。

 もう、これ以上頑張らないでほしいと思い始めていた。

「どうしたよ、そんなたそがれちゃってよー」

 店の中から、暖簾を押して修が出てくる。大学生らしい、古着コーデ。

「みんな、中で待ってんぞ」

「いや、ごめん。そろそろ戻ろうとしてたとこ」

「また、優実ちゃんのこと考えてんのか」

「まあ、そうだけど」

「そうだよなー。クラスメイトだっただけの俺でも、急に遠くに行っちゃった感じはあるもん」

 修がどんよりとした空を見上げて、ふうと息を吐く。

 

 優実の作った楽曲が一週間前バズった。とある動画サイトに投稿されたそれは、称賛のコメントを何万件も集め、拡散された【ユウミ】という名前がSNSのトレンドに入り、ある有名なバンドマンは、名指しで褒める投稿をしていた。

 優実から届いたメッセージには、珍しく誤字があった。

『タケヒロ、どうしよい! 、通知が、止まらない!』

『やばい、俺も見てる! すげえ、マジですげえ!』

『どうしよう、全部コメント返したほうがいいよね⁉』

『全部はどう考えたって無理だろ!』

 優実は、やはり魔法使いだった。言葉にしただけで、夢を現実にしてみせる。

 熱を持ち始めるスマートフォンとは正反対に、心の隅が冷えていくのが分かった。

 優実のフォロワーが増えていくのを眺めながら、もう止まってくれ、と願った。

 これ以上有名になったら、東京に居場所を見つけたら、優実はここに帰ってきてくれない。隣にいられる自信がない。

 初めて、優実に有名になってほしくないなんて醜い感情が、自分の中にあることに気づく。一度自覚してしまった心の中にいる怪物は、彼女の成功を餌に体積を増やしていった。

 朝、目を覚ましたらインターネットを徘徊する。【ユウミ】の名前でパブリックサーチをして、彼女のことを称賛するコメントを見つける。飛び上がるほど嬉しくなって、誇らしく感じるが、そのユーザーネームが男っぽいと分かるやいなや、一気に気持ちが萎える。【ユウミ】の彼氏は俺なんだと、大声で言い返したくなってくる。

 なんとかスマートフォンから距離をとって、死にそうになりながら講義へ向かう。

 当然、内容は頭には入らなくて、ますます自分に嫌気がさす。バイトへ向かう。C Dコーナーにいつか彼女の名前が並ぶのを想像しては苦しくなる。修にサークルの飲み会に誘われて、断る理由も思い浮かばず、向かう。

 がやがやとした場に囲まれると、途端に気が大きくなった。抱えていた不安は、気のせいかもしれないと思えた。息をするのもしんどかったのに、思考を片隅に追いやることができて楽だった。

 飲み会の後、優実に電話をかける。

「またサークル行ってたの?」

「うん。修と」

「いいなあ、楽しそう」

「優実は?」

「また忙しくなってきた。二十四時間じゃ足りないよ」

 優実の忙しさを汲んで三日に一度に設定し直した電話口からは毎回疲れ切った声が聞こえた。無理しないで、とは言えなくなっていた。無理ではなく彼女がそれを自ら望んでいることも分かっていたし、二十四時間すら持て余し始めている俺に、彼女を気遣う資格などないように思えた。

「優実の顔、見たいなあ」

「動画サイトで見れるけど」

「そうじゃなくて。直接、近くで」

「うん。私も」

 会いたいと言うと、優実は同じ言葉を繰り返してくれた。彼女のほうから言ってくれたことはなかった。会う余裕がないのが分かっていても、それを言葉にしてくれないことに、強い苛立ちを感じ始めていた。

 優実は、なぜだか自分の話をしなくなった。自ら話を広げなくなった。優実の声はいつも眠そうで、ただ相槌で電話の時間の尺を稼ごうとしているように思えて、それがまた俺を不安にさせた。

「もしかして、俺のこと冷めた?」

「冷めてないよ、ただ、ちょっとだけ疲れてて。でも、そう思わせてたらごめん」

 不安になることがあっても、疑わないでほしい。優実とした取り決めは、一度破ってしまえば、決壊したダムのように守れなくなった。

 優実は、自分が悪くないのに、ごめんね、と謝罪の言葉を口にする。それがまた俺の幼稚さを際立たせて、情けなくなる。まだ俺のこと好き? 好きに決まってるじゃん。早く会いたいね? うん、会いたいね。求めているはずの返答は、徐々に熱を失っているように感じられた。

 距離が離れていても、支え合う。優実がかけてくれた特製の魔法は、もはや解けてしまっていた。

 

「あ、優実ちゃん、またTikTokでバズってるわ、見てみて」

 修が、自分のことみたいに嬉しそうにはしゃぐ。今や優実は鹿児島ではプチ有名人になっていて、その様子を見るのも億劫になっていた。

「すげえよな」

 相槌をうって、店の中を覗いてみる。サークルで貸し切った店内からは、かすかにコールの声が聞こえてくる。

「なー。数ヵ月前まで同じ教室にいたって、信じらんないわー」

 修の言う通りだ。

 たった数ヵ月前まで、優実は教室にいた。一年前には、一緒に教室を抜け出して、天文館ではしゃいで、初めてのラブホテルに緊張する、普通の俺たちがいた。そして、今もこの鹿児島で、たまにカラオケでも行きながら、彼女の上手な歌声を独占するはずだった。たまに遠出でもしながら、ささやかな幸せを享受して、いつまでも、優実は隣にいてくれるはずだった。

 俺は、何を間違えたんだろうか。分からなくて、大声を出してみる。

「俺たちは、いつまでこんなんなんだろうなあ」

 口にすると、情けなさすぎて言わなきゃよかったと後悔した。

 

 

『来週、一度帰省する。会えるかな?』

 優実から届いたメッセージに、寝転がっていたベッドから文字通り飛び上がる。彼女の気が変わらないうちに『来週なら、いつでも空けられる!』と返し、そのままアプリで美容室を予約する。

 あれほど会いたいと伝えても難色を示していた彼女のほうから誘ってくれた。にんまりしてしまう。乾いていた身体に水分が染み渡っていく、みずみずしい感覚がある。

 強がりは良くないのだと、最近強く感じる。

【ユウミ】に関するコメントや登録数は日に日に増えていた。反比例するように、優実は俺とやり取りをしようとしなくなった。それが極度の疲労によるものだと想像はできていたけれど、その態度が許せなくて、ある日、三日に一度、欠かさずに自分からかけていた電話をかけないでみた。優実のほうから、かかってくると信じていた。

 五分待ってみた。電話は来なかった。十分待った。鳴らない。一時間待った。鳴らなかった。三時間待った。

 来なかった。

『優実って、もう俺のこと好きじゃないよね』

 翌朝、痺れを切らしてそう送ると、夜になってから『ごめんね』とだけ返ってきた。

 彼女にとっての優先順位から、自分は漏れているのかもしれない。そう思っていたから、突然の帰省の知らせは叫びたくなるほど嬉しかった。

 

 当日、鹿児島空港行きのバスに乗る。見飽きたガジュマルの木が視界の外へ自動的に流れていく。軽い渋滞を経て、空港に着いたのは飛行機の到着する三十分前だった。

 お土産コーナーで用もなくうろつく。かるかんがある。見るのも飽きて到着ロビーで待っていると、続々と人が出てきた。彼女は、人波の最後のほうで姿を現す。

 数ヵ月ぶりに会った優実は、今までに見たことのない服装をしていた。胸元まで伸びた髪を、黒のキャップでまとめている。覗き込むようにしてようやく見える顔は、前よりも少し痩せているようにも思えた。

「タケヒロ、久しぶり、本当に」

 動画の中ではなく、直線鼓膜を揺らす声に、泣きそうになる。

「どこか、行きたいところある?」

「また、あの喫茶店に行きたかったんだよね。タケヒロと」

 優実からスーツケースを奪い取って、地面の上を転がす。長旅をしてきた彼女は、目の下のクマをこすりながら、ありがとうとこぼす。

 天文館前行きのバスに乗っても、不思議と会話はなかった。話したいことは山ほどあるはずなのに、話しかけるのがはばかられた。優実は、バスの窓から数ヵ月ぶりの景色を、懐かしそうにずっと眺めていた。

 天文館前のバス停で降りる。スーツケースを引きずって喫茶店に入る。

 優実は、あの日と同じようにサンドウィッチとカフェオレのセットを注文した。サンドウィッチが届く前に、おずおずと語り始める。

「私ね、東京でしんどかったとき、サンドウィッチの写真ずっと見返してた」

「うん」

「バイトで稼いだお金もすぐ家賃と生活費でなくなるし、安いからコンビニのパンばかり食べてて。お腹は溜まるけど、毎日同じの食べてた、ずっと。味気ないから、ここのサンドウィッチの写真見返しながら、美味しかったなって思い出して」

 優実の、こけた頬が痛々しい。

「だから、タケヒロと来たかったんだ。ファミレスは向こうにもあるけど、思い出の喫茶店は、ここにしかないから」

 少しして、届いたサンドウィッチを口にする。

「変わらないな、あのときから」

 サンドウィッチの写真は、もう撮らなかった。

 人気ひとけのない商店街を歩く。ドーム状のアーチが、日差しから守ってくれている。

 あたりを見渡す。

「どうしよっか」

「私、疲れちゃったな。少し休みたい」

「そしたら」

 導かれるように、一年前彼女と訪れたラブホテルが視界の端に見えて、俺たちはそこを目指した。

 

 優実がソファの上に紙袋を置いた。覗き込んでみると、箱がところどころ凹んでいる。

「これ、東京のお土産」

「東京で有名なお菓子?」

「わかんない。時間なくて、空港にある有名そうなやつ買ったから」

 二人きりで部屋にいるのに、なぜだか距離を感じた。前みたいに俺がベッドにダイブしてみても、彼女はソファから動こうとしなかった。

「優実、布団やわらかいよ」

「……うん」

 つまみで照明を調整していると、ソファから動かないまま、優実が言った。

「タケヒロは、支え合うってどういうことだと思う?」

 ちょうど、部屋が暗くなったタイミングだった。

「なんだろう。相手を不安にさせないように、努力することかな。相手のことを想ってLINEを頻繁に返すとか、時間を決めて電話するとか」

「たしかに、それも大事かもね。でも私は、相手を信じることが、全ての根底にあるべきだと思う」

 信じること。言われて、どきりとする。

「私はね、タケヒロのことが大好き。君が思っているよりずっと、大好き。そりゃあ、いられるなら一緒にいたいよ。歌にしたいほど、大切に思ってる。でもね、バイトが終わってから、死にそうになりながらした電話で、飲み会終わりの君に『俺のこと冷めた?』って聞かれたとき。バズったのが一回で終わらないように、一発屋だと思われないように、必死で作詞してる途中に開いたLINEに、君から『俺のこと、本当に好き?』って送られてきたとき。私は、君に信用されていないって思った。拠り所がなくなった気がした。一人で泣いてた」

「ごめん。そういうつもりじゃなくて。ただ、ちょっと不安になってただけで」

「不安って、何に対して?」

 言葉に詰まった俺を見逃さずに、容赦のない言葉が続く。

「私がシンガーソングライターとしての、夢を叶えそうなことに、だよね」

 嫌な汗が背中に噴き出て、食べたサンドウィッチを戻しそうになる。優実は言葉を止めない。

「君は、私のことを好きだ、離れるのが不安だと言いながら、私に寄り添ってくれたことはなかった。君は、私に並ぼうとするんじゃなくて、私が上手くいかないで、妥協して戻ってくるのを待っているように、私からしたら見える」

 ちかちかと、照明が、隅で滑稽に光る。

「言いすぎかもしれない。でも、タケヒロと一緒にいるのが、最近本気でしんどいと感じる」

 そんなの、ずるい。おかしい。せき止めていた負の感情が一気に流れ出る。

「優実は、昔からなんでもできるから、そういうこと言えるんだよ。ずるいよ、そんなの。優実が強いだけじゃん。俺からしたら、そんな風に強くあり続けること自体難しいよ」

「そうだよね。君からしたら、そう見えるかもね」

 一瞬、沈黙が流れる。

 「でもね、私はなんでもできる魔法使いなんかじゃないの。自分のやりたいことを叶えることに必死でいる、ただの人間なんだよ。今まで、本当に私のことちゃんと見てくれてた? いくら有名になろうが、私が他の男に流れるように見える? ただ不安に身を任せるだけで、自分から動こうとしない君のことは、もう好きになれないよ。私はもう、君を支えてあげられるほど、余裕ない」

 天井をゆらゆらとたゆたう影は、クラゲみたいだった。それはやっぱり、俺一人の影だった。

「ごめんね、私はここに留まることはできない。いろんな人に、歌を届けたいから」

 それから、会話らしい会話はもうなかった。広いダブルのベッドの端っこで、お互いに触れないようにして眠る。夜中、すすり泣きのような声を、聞こえないふりをして眠った。

 翌日、レコーディングがあるからと優実は早くから空港へ向かった。彼女は、本当に余裕がない中で、俺のために時間を作ってくれたのだとようやく思った。気づいたけど、どうやらもう遅いようだった。搭乗ゲートの前で、優実は腫らした目をキャップで隠した。

「タケヒロ、別れよう」

 もうひっくり返しようのない言葉だったから、俺は頷くしかなかった。

「また、会えるかな」

「タケヒロが、本当になりたいものになれたとき、また連絡してよ」

 そう言い残して、華奢な背中が消える。涙が滲んで、最後まで見送ることはできなかった。

 優実はきっと魔法使いでもなんでもなかった。努力をけっして誰にも見せないだけで、好きなものにただまっすぐなだけの、ただの人だった。

 

 

「タケ先生、ここの問題教えてよ」

「おー。どこ?」

「問2のとこー」

 女子生徒がとことこと寄ってきて、教卓に片肘を立てる。教科書に印字された小さな文字が、視界の中で軽く滑る。問2。解の公式を利用する問題。

 優実に別れを告げられてから二年、教育実習で母校を訪れていた。なんの因果か、高校二年生のときに優実と過ごした教室だったから、配置されたときは、こんな偶然ってあるんだなと笑ってしまった。

「ここは、解の公式使えばいいよ」

「解の公式ってなんだっけ?」

「それをまず覚えなさい」

 女子生徒は、舌を出してみせる。

 数年前までいた教室は、少し色あせて見える。机はこんなにも小さかっただろうか。窓から、こんなにもグラウンド全体が見渡せただろうか。校門の脇にあったクスノキは、埋め立てられて花壇ができていた。ちょうど優実と待ち合わせした場所には、一面ネモフィラが咲いている。

 女子生徒は、問題に飽きたようでシャーペンを手のひらの上でくるくると動かす。

「タケ先生ってさー、彼女いないの?」

「いないよ」

「えー、大学生なのに、いないの?」

「こら、怒るぞー」

 ごめんなさいー、とまったく反省していない様子でけらけらと笑う。

 優実と別れてから、自分の生活を見直して、一つずつ目標を作ることに決めた。優実みたいにやりたいことなんて見つからなかったから、とにかく、目の前に現れる高そうな壁を、自分なりにでいいから、こつこつと越えるようにした。

 逃した単位を取りなおす。教職の単位をとる。バイトを続ける。

 自分が心からなりたいものではないけれど、一つ目標を叶えると、自分のことがほんの少しだけ好きになれた気がした。一つ一つ必死に向き合って、乗り越えて、気づけば目の前に教師になるという夢が、前よりも明確な形として現れていた。

 今もこれが自分のやりたいことなのか、自信を持って言葉にはできない。でも、それでいいのかもしれない。やりたいことを必死に追いかける優実みたいな人生も、特別やりたいことのない自分を認めてあげて、とりあえずもがき続けてみる俺の人生も、どちらだって悪くない。

 窓の外からは放課後の音が聞こえる。グラウンドから野球部の声が、廊下から吹奏楽の奏でる音色が、風に乗る。女子生徒が教科書から黒板に解の公式を書きうつしながら、あ、と声を出した。

「先生、【ユウミ】って知ってる? あの人、この学校出身なんだって」

「ああ、らしいな」

「すごいよね。最近、登下校中は絶対に聴くんだ」

 優実の歌声は、今でもたくさんの人が今日を生きる源になり、繊細な歌詞で励まし続けている。無理しないでほしいな、と思う。彼女が作るメロディーは相変わらず美しくて、その歌詞は魔法みたいに心に沁みわたる。簡単に生み出しているように思えるけれど、あれは、誰からも見えないところで身を削り、心を込めて、描いたものだ。

 優実は、けっして魔法使いなんかではないから。

「……私ね。進学先、迷ってて。上京してみたいけど、担任は偏差値が足りないって言うし、お母さんは鹿児島に残ってほしいって言うし。どうすればいいのかなー」

 女子生徒は、頬を膨らませる。不思議なもので、悩みは時代を超え、また巡り巡って、自分の前に現れる。

「自分が行きたいと思ったら、行ったほうがいいよ。自分の人生だからね、後悔なんて後からいくらでもできるから。あと、ネガティブなことは、できるだけ口にしないで。偏差値がどうとか、これからどうにでもなる。お母さんだって、説得したらいい。とにかく、こうしてやるって希望だけ言葉にして、疑わずに、言葉にし続ければ、なんとかなるから」

 昔、誰かさんが教えてくれた言葉を伝えてみると、感激した様子で女子生徒が目を輝かせた。

「タケ先生、急にいいこと言うじゃん」

「はは、受け売りだよ」

 相談したかったのは数学の問二じゃなくて、進路のことだったんだろう。女子生徒が笑顔で教室を後にして、俺はその華奢な背中を見送る。

 案外、俺も学校の先生に向いているのかもしれない。空っぽになった教室で、イヤホンを片耳に付ける。音楽アプリのプレイリストが、二つ並んでいる。一つは、優実がおすすめしてくれた曲たち。もう一つは、彼女が自ら作り出した曲たち。迷ってばかりの俺の背中を、優実はまだ押してくれる。

 どちらを聴こうか。迷ってから、最新のプレイリストを開いた。

『クラゲみたいな君』

 今年、優実がリリースした新曲。その歌詞に登場するなんとも女々しくて情けない男の子は、彼女とまた胸を張って会える日を目指して、今日も必死に毎日に抗い続けている。

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