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住野よる
『君の膵臓をたべたい』書影
『君の膵臓をたべたい』
から時は流れ――
2018年9月1日に公開された劇場アニメ版『君の膵臓をたべたい』の来場者特典として配布された非売品冊子に掲載された作品をWEB初公開!

 自分の平凡さが嫌いだ。平凡って、普通って言葉と同じ意味じゃない。
 平凡な家庭環境、平凡な学校生活、平凡な運動能力、平凡な学力、平凡な容姿、平凡な趣味。
 世間一般でそうあるように、私も平凡って言葉を退屈と同じような意味で使っている。
 だから、これまた平凡な理由で親と喧嘩をした次の日、偶然お父さんが不倫をしているかもしれないと知ってしまった時にはショックであったのは本当だけれど、その裏でワクワクとしてしまった。やっと自分の人生に平凡じゃない何かが降ってくるかもしれない。
 更に次の日、私は意気込んで、幼馴染を普段は使わない駅のそばにあるカフェへと要変装と伝えて呼び出した。
「絶対、ふゆの勘違いだって」
 あんずはその名前に似合う春めいた色の唇から息をもらした。
「いやいや、私だってあんなおっさんのどこがいいんだって思いますけどね、やることやってますよありゃ」
「あらあら、そうですか」
 興味なさげに、あんずはアイスカフェオレを吸って、開いた文庫本に目を落とす。そのくせ、普段はかぶらないバケットハットに普段はつけない伊達メガネと、張り込みのための変装はばっちりで、気合十分。
 こういうところ、心のありようが読みにくいあんずは周りから平凡じゃなく見られ、ミステリアスだなんだと陰でモテている。幼馴染の私はこの子がただ力の抜き方が上手すぎるだけだって知っているけど、適当にやれるっていうこと自体が平凡じゃないんだとも分かっていて、妬ましい。ついでに顔が平凡っていうには随分と可愛いってところも妬ましい。
「まあ、久しぶりのふゆとの再会だから嬉しくてまんまと来ちゃったけどさ」
「一昨日あんずの部屋でごろごろしてたけどね」
「そんで、なんでおじさんが不倫してるなんて思ったわけ?」
 私はかぶっていたキャップのつばを少しあげ「んー」と一度もったいぶった。どういう順序で説明すればあんずを納得させやすいだろうかと考えたのだ。でも結局、適当なあんずには適当な説明でよかろうと、難しく考えるのをやめた。
「勘」
 あんずが、すううっと息を多めに吸う。
「クズな男にひっかかりまくるふゆの勘がおじさんは不倫してるって言ってるってことは信用できるのかと一瞬思ったけど分かるくらいならクズにひっかかるわけないからそんなことで私を暑い中呼び出した償いをさせようと思いまし、たっ」
「余計な長台詞に酸素の無駄遣いするなっ。それにクズじゃない、自由人なだけ」
「自由人はクズって意味だから、表現者もそれに近い」
 あんずは適当な顔して暇つぶしに人の心当たりを的確についてくる。そういう奴のことをヤな奴っていうのだ。あんずに喧嘩を売って心を折られた対戦相手を私は何人も知っている。でも私も伊達にあんずの隣にずっといるわけじゃない。
「いや、まあ? 付き合ってた男に? 時間とかには妙に神経質なのが面倒くさいって言われて? 教師の子どもっぽいねと言われて? 捨てられたあんずが、自由な人っていうのに難癖つけたくなるのは分かりますけど?」
「殺すぞファザコン」
 私達は互いにメンチを切り合い、どちらからともなくこのノリがめんどくさくなってやめた。
「ふゆの勘には、夏休みの一日を消費する意味はあんの?」
 そう、今は夏休み。花の女子高生な私達の大切にしなきゃいけない貴重な一日。
「あんずの部屋で二人きりの人生ゲームやってるよりは現実に影響あるよ。家庭崩壊したらあんずの家の子にしてね」
「うちのパパとママ引き受けちゃいそうだからホントやめて。私はこれまで通り一人娘としてちやほやされて育ちたいの」
「だったらうちのお父さんの不倫を突き止めて、お母さんにばれる前にやめさせるの手伝ってよ。そんで私は弱みを握って今後喧嘩した時にちらつかせる」
「また怒られたんだ」
「喧嘩したのっ。マジむかつくんだよっ」
「時間の無駄だと思うけどねぇ」
 どうせ最後は付き合うくせに素直になれないあんず。素直になる理由を与えてあげるため、私は仕方なく今回どうしてお父さんに不倫の容疑をかけたのかをきちんと話すことにする。別に言わなくたっていいだろうけど、まだお父さんが来るだろう時間までは少しある。私はあんずと違ってじっと本を読んだりするのが苦手なので暇なのだ。
 つまりこういうことだ。お父さんが若い女と電話しているのを聞いてしまった。昨日の晩、未だ怒りの炎が消えていなかった私は、遅くに帰宅したお父さんと目も合わさなければ口もきかなかった。早めに二階にある自分の部屋に引っ込み、雑誌を読んだりゲームをしたりしているうちに気付けば午前零時。歯磨きを先にしとこうと一階に下りれば、既に電気は消えている。安心して洗面所で歯磨きをしてキッチンでお茶を飲んでいると、ふと、玄関に近いお父さんの部屋からかすかな声が聞こえた。特に興味もなかったんだけど、そろりそろり寝ぼけたふりをして近づくと、いつもよりかなり優しげな父の声が聞こえてきた。その優しさを娘に使ったらどうだといらだつのも束の間。お父さんが相手の名前を呼んだ。明らかに下の名前を、しかもちゃんづけで。お父さんはそれから相手に時間と場所を告げ、会う約束を取り付けて電話を切った。私は急いで自分の部屋へと戻った。
「会社の後輩とかじゃないの? 女性率高めでしょ」
「うちのお父さん、部下のこともさんづけで呼ぶからそれはない」
「そんであの時計台のとこにおじさんとその女が来るのね。無駄足だったらパフェ」
「証拠握れたら奢ってあげるよ」
「結果に関係なく労働分はきちんといただかないと」
「歩合制にしないとあんた何もしないでしょうが、あっ」
 とかなんとか言ってるうちに、来た。
 薄い水色のシャツに紺色のネクタイ、地味をぎゅっと固めたらああなるんじゃないかって姿でうちのお父さんが駅前のシンボル的な時計台のところに歩いてきていた。思わず身を屈める私。キャップとサングラスで完璧な変装だと思うけど、念のため。 「ふゆ、お願いだからホントに女が来て泣き崩れるのだけはやめてね」
「幼馴染をどういう風に見てんだ」
「父が浮気してないことを確認して安心したいだけのファザコン」
 くだらないあんずのたわごとを無視して、私はじっとお父さんを観察する。どことなく顔がにやけているように見えてきて、私やお母さんを騙している事実とセットで殺意が湧いてきた。
「どういう奴だろ」
 なんとなく私が呟いただけなのに、あんずは特に熟考した様子もなく嫌なことを思いつく天才みたいなことを言った。
「ふゆのお母さんの若いころに似てたら最悪だね」
「殺すよ」
「親を殺すとか言っちゃだめだよ」
「あんたを」
「私かい」
 戯言とは分かっていても、そんなことがあったとして果たして自分は受け止められるだろうか、そんなことをファザコンじゃないけど考えていると、どうやらそうではないということが、やがて分かり、ひとまずはほっとした。
 しかし。
「若っか」
 私より先にあんずが言った。地味を固めたおじさんの元にやってきたのは、私達の年齢から五歳も離れていないだろう、女の子だった。私は、思わず息をのむ。
「……あんず、ちらちらこっち見なくても泣かないから」
 今は驚きの方が大きい。いや、ショックもあるとかじゃないけどっ。まさかあんな若い子が来るとは思わなかった。
 いやでも、いくらなんでも若すぎないか?
 援助交際という言葉が脳裏に浮かびかけたところで、二人は軽く言葉を交わし、駅の方へと歩いていこうとした。この近くの歓楽街へと足を延ばす様子はないようで安心する。
「行こうか」
 私はキャップを深くかぶり、やる気のなさそうな演技をしているあんずの腕を引いて、一緒に店を出た。

 視線は出来るだけ下げ、こっそりと駅の改札を抜けると、すぐそこにある一番ホームに二人はいた。私達は見つからないようこっそり二人の背後を通り過ぎ、距離をとる。電車に乗り込んでから、お父さん達が乗る隣の車両に移動しようという算段をつけた。
「親と同じ車両乗らないって、思春期の子どもかよぉ」
「思春期じゃないならあんたはなんなんだよ。それよりあんず、二人の会話、何か聞こえた?」
「んーん。ごにょごにょしてた」
 私をいじる気しかないのだろうあんずのことは無視して、私はあの子がどういう事情があってうちの冴えない父と知り合ったのかを考えることにした。
 私の望みとは関係なく、どうやら援助交際という線は薄い気がしていた。ただの援助交際なら女の子の方が、わざわざ移動する時間を渋るだろう。それに真っ昼間というのも人目があるし。なら、真剣交際? それこそどこで出会ったのだろうか。まさか少女漫画みたいな運命の出会いがお父さんにあるとも思えない。職場の人達には何度か会ったことがあるけれど、あんな若い人はいなかったはずだ。まさか、新入社員に手を出したのだろうか。だとしたらいっそう失望。
 考えてるうちに電車が来て、お父さんと女の子が乗り込むのを確認してから私達も乗り込んだ。電車内を何両か移動すると、並んで座り笑顔で互いの顔を見る二人が次の車両にいた。車両連結部に窓がついているのは都合がよかった。端っこの席に座ると、二人の楽しそうにしている様子がよく見えた。
「ラブラブじゃん」
「まだ、そういうのって決まったわけじゃない」
「不倫って言い出したのはふゆでしょ」
 あんずの正論に何も言い出せずにいると、彼女はわざとらしい溜息まじりに「そもそもなんで怒られ、おっと、喧嘩したのさ」と私のほっぺをつんつんしてきた。その指食べるぞ。
 あんずの方は向かずに、私は数日前に起こった諍いを思い出す。
 些細なことだった。本当に些細なこと。たまたまテレビでやっていた映画を、観ていた。たまたまその日はお父さんが仕事から早めに帰ってきていた。私がリビングのソファでテレビを観ている後ろで、お父さんがテーブルにつき夜ごはんを食べていた。そんな平凡で退屈な日常に、日々飽きているものだから、映画を観ながらスマホをいじり、なんとなく言った。
「何もない長い人生は退屈だなあ」
 映画が、ちょうどそういうテーマのものだったのだ。特に返事を求めるものでもなかったのに、お父さんが口を出してきた。
「そんなことはないよ」
 それも、たまたまだったのかもしれない。お父さんの声のトーンが、雑談というよりはむしろ説教に近く聞こえて、私の脳の裏側あたりにある何かのセンサーに触れた。だから、言い返したのだ。
「退屈だよ。平凡なまま、何も起こらずに、このまま六十年くらい? 希望ないなー」
 これ以上私が続けなければよかったなんて、思う人もいるかもしれない。けれど、悪いのはお父さんの方だ。せっかくの家族の団らんを、ぶち壊したのはあの人だ。
 さっきまでの言葉の延長線上にあったから、言っただけだ。
「退屈なままの人生になるくらいなら、劇的に死んじゃう人生の方がまだ良さそう」
「ふゆみ」
 名前を呼ばれたから、振り向いた。お父さんはしっかりとこっちを見ていて、その顔は、明らかに何か説教しようとしているのだと分かった。その顔を見て、何を言わずとも、世の高校生達が恐らくそうであるように、私はカチンときた。 「死んでしまった方がいいだなんて、そんなことを言っちゃいけない」
「世の中にはもっと生きたい人がいたんだから、なんて、そんなつまんないこと言うの?」
「そうだよ」
「流石は、つまんない私のつまんない父親だね」
 そこからは、もう完全な泥仕合が続いただけだったので、詳しく思い出す必要はない。言い争いになって、面倒になった時点で私は自分の部屋へと引き上げた。後から部屋をノックする音が聞こえたけど、私は無視した。
 全てをあんずに言えばまたあげあしをとられそうだと思ったので、私は端的に説明する。
「生きる意味について、ね」
 どうせ痛い親子だとか言ってくるんだろうと思っていたから、全力のドヤ顔で言い放ってやったのに、あんずは予想外に「ふーん」と相槌を打つだけだった。たまにすかしが入ると、こけそうになる。もちろん比喩的な意味で、こけたりしないけど。  しばらくがたんごとん電車に揺られていると、やがてお父さんと女の子は、ある駅に電車が停まったところで立ち上がった。先にお父さんの方が立ち上がったのを見ると、どうやら今日のホストはお父さんの方らしい。どうでもいいけどお父さんって、お母さんと付き合ってた時どんなデートプランを立てていたのだろうか。さぞかしつまんなかったことだろう。
 文庫本を読んでいたあんずを促し、私達も電車を降りる。幸い、お父さん達はこちらに背を向けていた。横で、あんずが大きく背伸びをする。
「わりと遠くまで来たねー」
「ホントだね、初めて降りた」
 ホームには人が少なく、駅の周りも賑やかと言えるような場所ではなさそうだ。とてもじゃないけれど、デートに向いた場所ではないだろう。
「女の子を囲う家を借りるのにちょうどいいのかな」
 あんずが私の心を読んだかのようにまた嫌なことを言う。もしそんなことをしていたら、お父さんを脅して賃貸料を全て私のこづかいにさせてやろう。あんずにはあげない。
 十分な距離をとって後をつけ、改札を抜けると目の前にはロータリーが広がっていた。ここでバスやタクシーに乗られると苦しいなという私の心配を前の二人が察したわけもないけれど、彼らは乗り物を無視し、徒歩でロータリー奥の坂道を上っていった。見ると、お父さん達だけではなく何人も駅からそちらへと向かっている。坂の更に向こうに目立つものはない。ただ丘が見えるだけ。
 えー運動したくなーい、と駄々をこねるあんずを引っぱり、私達も彼らに続いて坂へと向かうことにする。 「やめてー、こんな暑い中運動したら死んでしまうー」
「死なない! あんず見てるとほんと親からの遺伝とかでたらめだなって思う」
「一番高いパフェ奢ってくれないと死んでしまうー」
「出来高!」
 渋々といった表情を演出する面倒であざとい女の子を引き連れるのはなかなかに骨が折れる。しかし、何かあった時に不安なのであんずにはぜひとも側にいてほしいのも事実だったりと、私も面倒な女の子なので、きっと生まれた時から今まで友達として上手くやっていけているのだ。
 なんだかんだじゃれあいつつ、坂を上っていくと、すぐ背中から汗が噴き出してきた。自動販売機で水を買ってあんずと分け合い、また足を前に進める。途中、元気いっぱいな様子のおじいちゃんおばあちゃんに追い越された時は、二人して変な笑いが込み上げてきた。
 一体、お父さん達はこんな苦労をしてまでどこに向かおうとしているのか。その答えは、意外とすぐに分かった。坂の先に長い長い石段を見つけ、横から「あとは家族の問題だと思うの」と聞こえてきたところでだった。  車で来た人向けにだろう、駐車場を案内する大きな看板があった。
「あんず、お墓だ」
「ああ、うん、お墓、お墓? お墓か。ああね」
 暑さですっかりボキャブラリーと思考力を失った私達は前の二人の背中をぼんやりと見つめながら階段を上る。途中からずっとおんぶしてーだっこしてーと幼児のような声が聞こえていたが無視した。お父さんを問い詰めてから、パフェを奢らせてやれば、小さな子どもの機嫌も直るだろう。
 階段をようやく上りきったその時、そこから先に緩やかな坂が見えたところで、私の中のアドレナリンが噴き出したのか、前を行く二人に関しての新たな説が脳内に浮上してきた。
「隠し子、とかなのかなあ」
「……もうどうでもいい」
 ぐったりしたあんずに、階段を上ってきて疲れた人を狙ったのだろう絶妙な位置に置いてある自動販売機でジュースを買ってあげた。墓地で本当に死なれては寝ざめが悪い。
 とはいえ今までの坂や階段に比べたらその先は随分となだらかだった。道の左右にお墓がたくさん現れ、たまにある珍しい形のものに感心しながらお父さん達の後を追った。
 いつの間にか地面は石畳になっていた。お父さん達はまだお墓参りをする様子がない。一体誰のお墓参りに来たんだろう。もうすぐお盆だけど、それと関係があるのだろうか。正直なところ気がつき始めてもいた。単純にお父さんの友達が最近亡くなって、その娘とお墓参りに来たなんてこともあるのかもしれないと。ぞっとした。つまんない私達の、つまんない結末だ。そんなのは、望んでいない。
 進んでいくと、少しずつ無駄なものがそぎ落とされるようにあたりが静かになっていった。自分達の足音が耳に届く。風の音がする。
 私達がお墓の水汲み場の横を通り過ぎたころ、前の二人は短い階段を上っていった。彼らの姿が見えなくなってから、私達も用心深く階段を上る。風が味方をしてくれたのかもしれない。声を潜めていない二人の会話が、流れてきた。
「お嬢さんには、お話しされたんですか?」
 相手に見つかっていることはないと思う。なのに、どきりとした。
「いや、タイミングを見てとは思うんだけど結局話せずじまいなんだ」
 お父さんの心苦しさが詰まった声色で、額を伝う汗が冷たく感じられた。
「そっか、えーと、さしでがましいことを言ってしまうんですけど」
「うん」
「私が娘なら、知りたい気がします。父の人生にいた、かけがえのない人のこと」
 女の子の台詞を聞いて、階段を駆け上り、やっぱりやましいことだったんじゃないか!と言い放つことは出来たと思う。しなかったのは、これまでの疲労のせいなんかじゃなく、お父さんがどう答えるのか、聞きたかったからだ。
 なのに、風が今度は逆の方を向いた。意地悪な風に、まるでいたずら好きの女子高生みたいな表情を感じた。隣のあんずの方を、思わず見る。彼女はなんでもないことを言った。
「訊きにいってみたら?」
「でも、なんか」
「一緒に行ってあげる。大丈夫だよ」
 かけがえのない友達に背中を押されて、私は心を決めた。階段を数段上り、キリッとした態度でお父さんに話をさせる、つもりだったんだけれど、そう上手くはいかなかった。
 何故か、一人でこっちに戻ってきていたお父さんと目が合った。驚いたのは、二人同時。流石は親子というべきか、全く同じトーンで「うわっ」という声が墓地に響いた。
「ふゆみっ、なんで」
「おじさんこんにちは!」
 妙に溌剌としたあんずの挨拶で初めてお父さんは二人でいることに気がついた様子で、もう一度驚いていた。
 予期せぬ展開にどうしたものか、色々と言い訳も考えたんだけど、ここは強行突破で行くことにした。
「お父さん、さっきの話、聞かせて」
「さっきのって……」
「かけがえのない人って、何?」
 ついつい攻撃的な声色になってしまった私に対して、目を見開いたお父さんは何かを考えた様子だった。そして、きっとそうなるだろうと予測した通りに観念し、私達に階段を上がってくるよう促した。
 お父さんの背中についていくと、その階層にあるお墓達のちょうど真ん中くらいの位置に、さっきの女の子が立っていた。近づいてみて、やっぱり自分達とさして変わらない年齢の女の子なのだと分かった。父が私に話せなかった話を、この子が知っていると思うと、少しばかり複雑な腹立たしさが頭をもたげた。
 女の子は驚いて私達の顔を見た。お父さんは律儀に横によけて、私達を紹介する。
「えっと……」
 何を隠そう娘だ、何を言い出しにくいことがあるのだろうか。あ、そうか、隠し子か浮気相手だったら言い出しにくいに決まってるか。
「いきなりの紹介で申し訳ないんだけど」
 女の子は、当たり前に不思議そうな顔をする。
「そこでたまたま? 会って、彼女が僕の娘で、ふゆみ」
「……こんにちは」
 一応頭を下げると、女の子は「ああっ」と声をあげた。驚いた様子のその声、後半に少し嬉しそうな声が混ざったことを不思議に思った。
 お父さんは私に彼女の紹介をする前に、今度はあんずを指し示した。あんずは、お墓を見ていた目を女の子に向ける。
「そして彼女は、あんず。ふゆみの幼馴染で、恭子さんのところの長女」
「はじめましてー。母がお世話にー」
 適当なこと言ってぺこりと不自然に行儀よく頭を下げるあんずに、女の子はまた「ああっ」と驚く。恭子おばちゃんのことも知ってるっていうのが意外だった。本当に何者?
 女の子は「はじめましてっ」と恭しく私達二人に頭を下げた。それを見ていたお父さんはついに、馬鹿丁寧な挨拶をする正体不明不倫相手候補隠し子疑惑ガールの紹介を始めた。
「彼女は、山内良佳さん」
 良佳、お父さんが電話をしていた相手だ。でも、名字は知らない。聞いたこともない。
 それを表情に出すと、お父さんは女の子に向けていた手で、そこにあったお墓を指し示した。
「このお墓に眠っている人の、お兄さんのお嬢さんなんだ」
「はじめまして、お父さんにお世話になっています」
 頭を下げられて、しかしどんなお世話になっているかも分からないので返事に窮する。無視するのも悪いので「いえ、そんな」と誤魔化しながらお墓を見ると、確かにそこには、「山内家」の文字があった。そんな親戚も知り合いも、いた覚えはない。
 分からないことだらけの中で、一つだけ明確になった。
 こんなにも堂々と私に挨拶が出来る不倫相手はいないだろう。同じく隠し子も。
 ということで、私の貴重な夏休みを潰した追走劇は無駄に終わったようだ。あんずがこっそり背中を小突いて。どうやら後でパフェを奢らされそうだ。
 でもじゃあ、なんなの?
「それで、ふゆみ達は、一体なんでここに?」
「このお墓の人は、誰?」
 濡れ衣を着せ、しかもつけてきたとばれるのはこちらの立場が弱くなりそうだったので誤魔化した。もちろん興味があったというのもある。
 お父さんは、私が誤魔化したことに対してではないと、一目で分かる困った顔をした。一度、何故かあんずの方を見て、それから私の方を見た。
 別に浮気でもなんでもねえんだったらもったいぶんなよ、と私が思ったところで、思わぬ声が飛んで来た。
「えっと、ご心配なく。私、聞いたことあるんで」
 あんずはそう言うと、お墓に目を向ける。え、何を?
 まさかのあんずの裏切りに私はショックを受ける。
「あんず、どういうこと? ここ来たことないんじゃないの? 嘘ついたの?」
「来たことはないよ。でも、思い当たることに気がついた。大丈夫、私がふゆに嘘つくはずないから」
 あんずの目はじっとこっちを見据えている。えっと、どうだろ。
 私が長年の友情にひびが入りそうなことを思ったところで、お父さんが観念したように「分かった」と言った。
 それから、お父さんは一つずつ、言葉を選び抜くようにして私に、そのお墓で眠っている人の話をしてくれた。
 とうとうと、思いを込めて。

 全てを聞き終わった時、私は、ショックを受けていた。
 知らなかったお父さんの過去に。
 想像もしない経験があったことに。
 お父さんが先日、私を諫めた理由も理解した。生や死というものと、お父さんは想像するよりずっと身近に接していた。私とは違って。
 でも正直なことを言うと、一番衝撃を受けていたのは、過去のどれについてでもなくて、今。お父さんが、かつていたその人のことを、今も心の中で大事に想っていると分かったことだった。
 ただの友達だとは思っていないと、その口調や表情から分かった。
 嘘みたいな話だったから疑うことも出来たはずだったのだけれど、スマホで事件のことを調べることだって出来たはずだったのだけれど、全て信じてしまった。お父さんの口調や表情が、決して架空の人間に向けられたものではないと分かったからだ。
 話し終わったお父さんに娘として言うべきことは多くあったろうに、私はそれらを何も言わなかった。
 代わりに、一番気になっていたことが口からこぼれた。
「まだ、その人のこと好きなの?」
 知りたかったから訊いた。するとお父さんは一度驚いたような顔をした後に、薄く笑って首を横に振った。
「ふゆみが思っているような、例えば恋人に向けるような気持ちを彼女に向けていたわけじゃないんだ」
「でも、友達じゃなかったでしょ?」
「友達じゃなかった。恋人でも家族でもない。仲良しだなんて彼女は言ってたけど、それもどこか違ってた気がする」
「よく分かんないな」
「うん、きっと誰にも分からないんだ」
 煮え切らない言い方。
「その人といる時が、一番楽しかった?」
 子どもな私の、きっと少し意地悪な質問に、お父さんは笑みを深めた。
「……ああ、楽しかったし、特別な時間だった」
 そうなんだ。
「でもね、ふゆみ」
 お父さんは、その場の誰でもなく、私にだけ声をかけた。
「一つだけ知っててほしいのは」
 そんな改まって何を。
「一番は、今なんだ」
 突然の恥ずかしい宣言、でもないのだろう。私は、数日前のお父さんとの会話を思い出した。
「お母さんと出会って、ふゆみが生まれて、元気に生きてくれている。なだらかな毎日でも、君達がいる今以上に幸せだったことなんて、僕の人生にはなかった。それは知っていてほしいし、信じてほしい」
 あんまり真っすぐに、お父さんが言うものだから、むずがゆくって、私は思わず目をお墓の方に向けてしまう。「や、そう」と一つだけ頷いておいた。
 どう会話を紡いでいいか分からず、黙ってお墓を見ていると、あんずが「おじさん」と声をかけた。
「そんなに言うなら、ふゆとお墓参りに来てあげればよかったのに」
 あんずの、親友想いの踏み込んだ発言に、目を丸くすると、お父さんは「ホントにそうだな」と素直に頷いた。
「いつか話さなきゃって思ってたのに、どういう風に言っていいのか分からなかったんだ。ふゆみ、ごめん」
 謝られてもどうすればいいのか分からず、私はまた「や、そう」と一つだけ頷く。
 私がまたお墓を逃げ場所に使っている間に、良佳さんについての説明を受けた。彼女とお父さんが直接のやりとりをするようになったのは最近のことらしい。自分が生まれる前に亡くなった叔母のことを知りたくて会っていたとのことだった。
 これ以上諍いを続ける毒気を抜かれてしまい、奇妙な静けさを残したまま、私達は四人揃ってお墓参りをすることにした。お水をかけて、何故だかお父さんは持って来た梅酒を供えていた。亡くなった時は高校生なんじゃなかったのかと、ちょっと思った。
 水を汲む桶の片づけなんかを終えたところで、お父さんが余計なことを思い出した。
「そういえば、本当になんでこんなところにいたの?」
「……お母さんにはお父さんが昔の女の話してたって言っとく」
 冗談だというのに、お父さんは本当に困った顔をした。いつもなら笑っていただろうけれど、全てをどう受け止めていいのか分からなくて、その話題はそこでやめた。
 坂を下りて電車に乗って、元いた駅に戻ってから、良佳さんと別れた。別れ際、今度一緒にご飯を食べに行こうと誘われた。疑いをかけたことをいつか笑い話に出来たらと思い、連絡先を交換した。
 私達の町にある駅まで移動し、次はお父さんと別れる番だと思っていたら、あんずが「じゃ帰るね」と突然言った。 「パフェは? いいの?」
「つけといて。今日は、おじさんにふゆを譲るんで、精々仲良くしてください」
 あんずはこっそりと私の背中に指をつんつんと立て、明日の約束をしたらさっさと自転車に乗っていってしまった。あんずなりに気を遣ってくれたのだろうけれど、少しだけ気まずい中一人にしないでと思った。でもそういうわけにもいかないのだろう。
 気がついていた。ここで気まずさをなくしておかないと、これはずっと尾をひいてしまうような予感があった。
 私も自転車で駅まで来ていた。先に帰ってもいいよとお父さんから提案されたけど、せっかくだからとか途中でアイス奢ってほしいからとか理由をつけて、一緒に歩くことにした。
 日が翳ってきて、少しばかりの涼しさが出てきた。
 なんでもない話を、なんでもないふりをしながら、した。基本的には私があんずや良佳さんのことを喋った。お父さんには気づかれなかったと思うけど、ただの時間稼ぎだった。
 いよいよ話題もなくなり、何か意味のあることを言わなければならなくなった。
 でもなんの話をすれば、この気まずさを解消できるのだろうか。
 いや、きっと謝らなければならないのだろうとは、思っていた。お父さんだって私に謝った。借りを作った状態だから、気まずいのだ。
 謝らなくちゃいけない。つまらないと言ってしまったことを。お父さんが高校生のころに特別な体験をしていたから、じゃない。
 私やお母さんがいる今が幸せだと言うお父さんの人生を、馬鹿にしたことを。
 けど、言おうと思うと、そんなことを改まって言うには、親子というのはなんともこう不便なもので、「あー」とか「うー」とか言ってるうちに、口が開かなくなっていった。
 頑張ってはみたのだけれど、やっぱり気まずさが勝ってしまった。
 代わりに、といってはなんだけど、とっかかりとして、こんなことを訊いてみた。
「お父さんは、さ、人生をどうやって選んだの?」
 私の進路に話題がうつったタイミングだった。
「出版社で働こうと思う前に、例えば、高校生でそんなことがあったなら、医者になろうと思ったこととかなかった?」
 その質問は思ったよりも、お父さんの心の大事な部分に関係していたようで、「そうだね」としばらくの間黙って真剣に考えてくれた。
「そういう選択肢もあったかもしれない。けど、僕は彼女の死に、自分の人生を重ねることをしないと決めた」
「どうして?」
「僕が彼女から教わった一番大きなことは、自分を認めて生きるってことだったから。自分のやりたいこと、大切なもののことを考えて、人生を選んできた」
 そうやって、お父さんは今の平凡極まりない毎日を手に入れたってことだ。
「私にも、そうしてほしい?」
「いいや、ふゆみにはふゆみの考えで未来を選んでほしい。これもあくまで僕の考えだ」
「そう」
 適当な相槌だけになってしまった。
 結局大切なことを言い出せず、つまらない雑談をしていると、家に着くまではすぐだった。謝ることの出来るタイミングはいくらでもあったのだろうけれど、最後まで私は謝れず、何もなかったという顔をして自転車を止めた。
 しょうがないかと、思ったのだけれど、お父さんが自転車を置いてきた私を「ふゆみ」と呼んだ。
「ごめん、大切なことを今まで黙ってて」
「……桜良さんのことを?」
 当然、そうだと思ったのに、お父さんは首を横に振った。
「君がいることが、特別なんだってことを」
 なんだよそれ。
 頭に浮かんだのは悪態のような言葉だったけれど、同時に湧いた気持ちがぐっと濃縮されて、私の背中をそっと押した。
「私も、ごめん」と、一言だけだった、一言だけだけど、謝ることが出来た。
 そうして私とお父さんは、いつもの家に平凡に帰り着いた。

「ファザコン」
 夏休みの一日、会って早々あんずの言葉がそれだったので、パフェの件は白紙にしてやろうかと思ったけど、正直昨日のことについては私もそれを否定できなかったので、大人しくファミレスに向かうことにした。
「ま、良かったじゃん。雨降って地固まるとはこのことでしょ、あ、ガムいる?」
「いらない。んー、ま、色々考えるきっかけにはなりましたねー。ひとまず自由人にはとどめを刺してきた」
「そりゃよかった。きっとまた同じようなのに捕まるよ」
 一言多く余計なこと喋んないと生きていけないらしい幼馴染は今日も楽しそうで何よりだ。
「幸せになろうって思って」
「つまんなくてもいいの?」
「自分が幸せになることの方を優先したらつまんなくなんない気がしてきた」
 まだぼんやりとしか分からないのだけれど、そんなものな、気がしてきていた。
 お父さんと、それから顔も声も知らない、お父さんの追憶の中にいる人の話を聞いて。
「そいえばふゆ、過去の話より未来の話をしたいんだけど、よい?」
「よいよい」
「昨日ママと話してたら、前に言ってたふゆとの夏休み二人旅オーケーしてくれた」
「おお! 過保護に育てられたあんずちゃんが旅に出るなんてことをよく許してもらえたね!」
「ねー、可愛い可愛い娘が数日家にいないなんてパパとママ耐えられるのかな心配」
「ぬいぐるみでも置いとけ」
 どこに行こうか、何をしようか、未来に出来た新しい希望に胸を躍らせる私達を、どこかから吹いて来た風が撫でた。